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親の体罰はどこからどこまで?体罰禁止の法律で親はどう対応すればいい?

「改正児童虐待防止法」が2020年の4月から施行されることが決まり、親が子供への体罰禁止!!!というニュースをテレビで見ることも多くなってきました。

ご飯を食べさせなかったり、注意しても聞かなかったら頬を叩くなどが具体例として挙げられていましたが、何か論点が違うような?と疑問に思ったのは僕だけでしょうか。

僕も2人の子供の親として体罰や躾を考える時間が多いし、なにより子供の将来のことを真剣に考えています。

どこからどこまでが体罰なのか、その線引きについて、私感をはさみながら書いていきます。

テレビで取り上げられている事例を見ながら、体罰禁止法が施行されたら親はどうすればいいのか?どうあるべきなのか?の答えを自ら出すきっかけになれば幸いです。

体罰禁止の法律で親はどう対応すればいい?

2020年の4月に施行される「改正児童虐待防止法」に関して、体罰は軽くても禁止になるという指針案が出ています。

結論から言えば、この法律が施行されてからも今も何もかわりません。親がどうすればいいのかは、その時々で子供をどう導いてあげるのかどうかを考えないといけないと思います。

ただ、体罰ってどういうものなのか、どう子供に影響するのか、この法律を通して考えるキッカケにはなりますよね。

そもそも体罰の定義が変わるかもしれないということなので、そこをまずはしっかり抑えておくことは必要不可欠です。でも大前提としてこの「改正児童虐待防止法」はなんで作られるのか?っていうことも大いに関係してきますよね。

体罰禁止の法律はだれのためのもの?

体罰禁止の法律は誰のためのものと言えるのか?

2018年にあった5才児の虐待のニュースや、2019年に入っても3才児の虐待死のニュースなどがありました。

これらのニュースは聞いてるだけで痛ましいのですが、そもそも躾と称して子供を虐待死にまで追い込んでしまうことを防止するための法律ということです。

報道を見れば、その行為が行き過ぎているのは明らかに分かるし、親にも色んな問題があったのかなと想像できるじゃないですか。

大きな括りで、そのような虐待死で亡くなってしまう子供をなんとか救おう、救いたいということでこの法律が制定されるのです。

だから一般の家庭では関係ないのかもしれませんが、それは外から見ても分かりはしません。虐待死防止のための救済方法を増やしていくことは、痛ましい出来事を減らす一歩になっているのは確かだと思うんです。

体罰の定義が変わる?

Wikiでの体罰の意味と、改正児童虐待防止法での体罰の定義が違います。

体罰は、父母や教員などが、子供や生徒などの管理責任の下にあると考えられる相手に対し、教育的な名目を持って、肉体的な苦痛を与える罰を加えることを指す。この場合の苦痛とは、叩くなどの直接的なものから、立たせたり座らせるなどして束縛して動くことを禁ずるなど間接的なものも含む。体罰に明確な定義はなく、一般的に身体刑や虐待や暴行や訓練とは異なる行為とするが、該当することもある。軍隊や部活動等における先輩から後輩への指導が肉体的苦痛を伴う時も、体罰とされることがある

体罰は古くより「注意をしても聞かない・もしくは理解できない」という子供に対する教育的な指導と認識されていた。方法としては、動物に対する躾と同様の直接的な痛みを伴う行為がとられることが多かった(手で叩く・殴る・鞭で打つなど)。

引用元:Wikipedia

 

一方、改正児童虐待防止法では、体罰はこのように定義されます。

体罰を「身体に苦痛、不快感を与える罰」と定義

引用元:日経新聞

ガイドラインを見るともっと詳しく書かれていますが、すごく簡単な言葉で、苦痛や不快感を与える罰はすべて体罰だということですね。

教育的な名目、注意をしてもきかない、もしくは理解できない子供への指導法とありますが、僕に言わせてみれば教育する親や周囲の大人の忍耐力や、教え方が違うという問題のように思えてならないのです。

子供が理解できないから、子供が言うことを聞かないから、これら全て「子供のせい」にするということなんでしょうか。

子供を躾けるのは親の役目で、立派な大人に育てるために尽力すべきなのは当然です。

例えば、教え方が悪いから言うことを聞けない、子供が成長中だからまだ理解できていない、という視点を持つことはできないのかな。とニュースを見ていて思うのです。

今回の報道で取り上げられていた事例から、どういう視点で体罰を捉えてどうしていくべきなのかを考えていきたいと思います。

親はこんな時どう対応すればいいのか

  1. 注意しても聞かないので頬をたたく
  2. いたずらしたので長時間正座させる
  3. 友達を殴ったので同じように殴る
  4. 他人の物を盗んだ罰で尻をたたく
  5. 宿題をしないので夕ご飯を与えない

 

これら具体的な事例をテレビでも紹介していましたが、インタビューではどれが体罰でどれが体罰ではないのかという点が分かれていました。人によって育ってきた環境は違うし、自分もこれくらいはやられてきた、という意見もありました。

とはいえ、僕からしてみるとどこまでいっても「子供が悪い」という視点にしか立てていないように思えます。

注意しても聞かないので頬をたたく

注意しても聞かない、聞いてくれない、そもそも耳にも入っていないなんてことは、子育てしていれば日常茶飯事かもしれません…。

親は注意しているだけで自分を正当化し、子供が聞かないこと自体を親のせいだとは思っていない所に、一番の問題があるんではないでしょうか。

そもそも、注意しても聞かないときに「頬をたたいた」からといってその後ずっと言うことを聞くようになるのか?問題はどこにあって何が悪くて注意されたのかが分からなければ、次の日も同じことを繰り返すのは当然です。

うちの子の例をあげると、

うちの5才の子は、最近いつも夕食中に立ったり座ったりを繰り返し、落ち着きがない上に残しものも多かったりします。

ここで頬を叩けば、子供は「痛い」と感じ、それ以外は頭に入ってこなくなります。でも、諭すように言い聞かせても立ったり座ったりを次の日も繰り返す…。困っている最中です。

じゃあ、なぜ大人は立ったり座ったりを繰り返したりせず「ごちそう様でした」が言えるのか?上の7才の子は、ごちそう様をして食器を片付けることが出来るのか?

夕食中に立ったり座ったりするのは行儀が悪いよ、ごちそう様をして作ってくれた人に感謝しましょうと理解できる人として成長したのか、それともまだ成長途中なのか、という違いです。

子供は日々成長している途中で、毎日新しい知識を入れたり知らないことを理解しながら大人になっていくわけです。

だから、大人は忍耐力をもって「子供ができるまで成長を待ってあげる」くらいの気持ちで同じことを繰り返し伝えていけばいいと思うんです。

いたずらしたので長時間正座させる

こちらも同様に、

いたずらしたから、正座させる。その先に何があるの?と。

いたずら→正座→いたずらしなくなる

こんな魔法のような方程式があるのでしょうか。やっぱり、そのいたずらは何がいけないのか、次はどうなってしまうのか、周囲の人がどんな気持ちになるのか等をきちんと話して伝えてあげなければ、同じことをしてしまうのは当然のように思います。

大人がキチンと説明して子供に理解してもらわないと、許せないいたずらをしてしまった時には取り返しがつかないかもしれませんよね?

そうなったらもう「いたずら」とは言えませんが…。

 

友達を殴ったので同じように殴る

友達を殴るのは、何かよっぽどな理由があったんでしょう。子供(特に男の子)はカッとしたら大人よりも手が出やすいです。怒りを抑えることも、これから学んでいく途中だからです。

それとともに大事なのは、友達の痛みを知ること。一方的な関係(こちらから殴るだけ)だと、やっぱり同じことをされるまで自分で「痛み」を感じることが出来ません。

だから大人が殴ってその痛みを知ってもらうのは、一見大事なように見えますが、僕は違うと思います。

友達を殴ってしまったのであれば、その場で喧嘩するほうがよほどいい成長になると思うんですよね。

これは特に小さい子ほど大事だと、子育てを通して感じる部分です。

他人に興味を示して一緒に遊びだす3才くらいから特に、見守っているだけなら自然と喧嘩になる場面もあるはずなんです。

これをことごとく制止するか、近くで見守るかでその子達が何を得るのかが全然違ってきます。

いまは子どもからどんどん危険を遠ざける傾向にありますよね。放課後児童クラブなどの子どもを預かる場では、とにかく危なそうなものはすべて「なし!」。「ジャングルジムは2段目まで」「ブランコの立ちこぎは2年生から」といったルールがいくつもある。

これは、雇用の問題も関係しています。職員は嘱託社員やパートなど雇用形態がバラバラですから、子ども教育に対するモチベーションもバラバラ。結果、親御さんからクレームを恐れて、少しでもリスクがあれば「やめておきましょう」ということになってしまうのです。

そんな環境で育った子どもは、チャレンジできないまま体だけが成長し、本当の危険や恐怖を実体験のなかで得ることができない。そうなると、自分の痛みを知らないばかりか、他人の痛みにも共感することができないのです。それは、子ども自身はもちろん、その周囲の人間にとっても危険なことでもあります。

引用元:子供学びラボ

ケンカを見守りお互いがお互いを叩くなどして痛みを知る、そして「痛かったね」「次はどうしたらいい?」と、子供を成長させるにはどうしたらいいのかを大人は全力で考えるべきだと思います。

だから、大人が「痛み」を分からせるためだけにただ殴るのとは意味が全然違います。子供の年齢にもよりますが、殴ったことで相手が泣いていたら子供でも感じることはあります。

殴られて痛かったら、どうすれば痛いのかを感じることが出来ます。ただ、体験しないことにはこれは絶対にわかりようがありません。

この痛みという意味での成長は、ぜひとも早いうちに遂げてほしいですよね。

他人の物を盗んだ罰で尻をたたく

他人の物を盗んでしまったら、これは立派な犯罪です。

大人であれば捕まってしまいますよね。

でも子供は成長途中なので、教えたことでもまだ理解できていなくて盗んでしまうこともあるかもしれません。

中学生や高校生にでもなれば別ですが、小さいうちにやってしまったら相手に素直に謝る事以外ないと思うんです。

犯罪であることをちゃんと子供のうちから伝える、犯罪を犯してしまったらどうなるのか、ちゃんと出来るようになるまで忍耐で待つ。

尻を叩いて盗まなくなるのであれば、これ以上簡単なことはありません。事態はもっと深刻です。大人の方こそ尻を叩くという安易な解決法に頼らずに、子供に真剣に向き合う必要があると思います。

宿題をしないので夕ご飯を与えない

こちらも同じなんですが、夕ご飯を食べないと色々影響するところが大きいです。

夜にぐっすり眠れなかったり、朝に必要以上に食べてしまったり、夕食も朝ごはんも抜いて学校へ行ってしまうことになれば、集中力も保たなくなりますよね。

「宿題をしない」ことと「夕ご飯を与えないこと」は、どんな文脈があったとしても繋がらないと思うんですよね。

じゃあ宿題をしないことにどう対処すればいいのか。これはかなり難しい問題ですね。

宿題をすることにどんな意味があるのか、なぜ宿題はするべきなのか、それをちゃんと理解してもらうにはある程度の時間が必要なのかなと思います。

勉強においては、よく「褒める」「叱らない」と言われていますが、本当にそのとおりだと実感しています。

勉強や宿題は「やらないといけないもの」ではなく、自分の「知りたい!」という好奇心からやりたくなるものです。受動か能動かの違いですね。

宿題をしないことを子供のせいにするのではなく、宿題が楽しい環境を大人が作ってあげる。そのためにどうすればいいかに時間を使っていったほうが有意義な気がします。

体罰ではない例とは?

一方で、体罰にはあたらないという事例も紹介されていました。

  1. 道に飛び出しそうな子供の手を掴む
  2. 他の子供に暴力を振るうのを制止する

 

道に飛び出しそうな子供の手を掴むというのは、ここで解説する必要が一ミリもないので割愛します。

他の子供に暴力を振るうのを制止する

これは上述した「友達を殴ったので同じように殴る」の部分に書いたことと被るかもしれませんが。

制止することで食い止められるのは、他の子供が怪我をしてしまう可能性。ということですね。相手を憎しむという感情が生まれることも防げるでしょう。

でもそれが出来たとしても、再度暴力を振るうという可能性はなくなりません。むしろ小さいうちに、お互いが痛みや悲しみを理解する機会を失うことになります。

年齢にもよりますが、暴力を振るうのには必ず「理由」があります。その理由を親や周囲が分かってあげることから始まります。

  • おもちゃを取られた
  • イヤなことをされた

 

などの理由があるはずなんです(これは僕だけの実感ではありますが)

ここも同じですが、他の子に暴力を振るうことはいけないことだと理解するまで、成長するのを待つ必要は絶対にあります。

難しい所ではありますが、相手側の親の理解も必要なことなので親同士がコミュニケーションを取る必要がある部分もあると思います。

体罰禁止の法律とどう向き合っていけばいいの?

体罰禁止の法律が施行されたら、僕たちはどうしていけばいいのか?

「体罰を、身体に苦痛・不快感を与える罰と定義すること」は僕としては違和感しかありません。

これから大人に成長していく過程で、むしろ苦痛も不快感も与えられず大人になった子供がいたらかなり心配になります。

苦痛や不快感は誰にでもあるもの、それをどう克服していくべきか、その解決方法を自分で見つけられるようになることが大事。

だから一般家庭においては最初の結論で書いたとおり、その時々で子供をどう導いていったらいいのかを考えるだけです。

苦痛や不快感は体罰でしか与えられないものでもないし、体罰には絶対に反対です。

でも人間の「成長途中」は短くはありませんから、大人になるまでのどこかの時期で体罰で伝わる”こと”もあるのは頭のどこかに入れておいていいのかもしれません。

それは、親や先生の「本気の愛情」を体罰によって感じる子供もいるということです。

 

高校生などある程度大きくなってもまだ大人として成長しきっていない場合、言葉で伝えるだけでは限界があること、この記事を読むと感じます。

だから愛情が足りていないのであれば、どこかで「体罰」という手段で愛情を注ぎ込むこともあるのかなと。

前置きもしましたが、今回の法律は虐待死で亡くなってしまう子供をなくすためのものです。誰にでも当てはめるものではないと思います。

ただ体罰と躾と教育って本質的にはどういうものなのかを、ちょっと考える機会にはなりました。僕はそう思っています。

親の体罰はどこからどこまで?

法律で定められる体罰について、親はどうすればいいのか少し分かっていただけたでしょうか。具体的事例にどう対処すればいいのかも、私見も交えながらまとめてみました。

結局は、どこからどこまでが体罰なの?と定義するのは難しいでしょう。そしてそこだけを考えるのも意味がありません。

体罰がどう子供に影響するのか、その先に解決策があるのか、それを冷静に判断する親の力と成長を待つ忍耐力が大事なのだと思います。

それができれば「体罰」は必要のないことだと分かりますし、逆に「ここでは必要なのかもしれない」という正しい判断が下せるようになるんじゃないでしょうか。

今までの体罰ありきの風習の中で生きてきた人は、これを機に体罰ではない教育法を知る機会になりますよね。

昔からの躾を信じすぎるのもよくないし、体罰NGだからといって全て放棄するのもよくないってことです。色んな情報を取り入れつつ、どうするのが子供の将来のためになるのかを常に考えながら価値観をアップデートしていければ一番理想なのかもしれません。

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